『知ってる』というプライドが曇らせる視界

こんばんは。

何だかまた意味深なタイトルですね、また訳分からない事言い出すんじゃないかとか思われるかも知れません。

自分でも先にタイトルだけ書いちゃったのでどういう流れになるのか実はよく分かってません。

私、日本を離れて6年になります。

インドや東南アジアにそれなりの期間住んでいて、見たり聞いたり感じたりした事はそれなりにあるし、それだけの経験をしてはいるんだと思います。

それなりには『知ってる』

今日のお話は、その『知ってる』という言葉の話です。

自分の「知ってる」ってどのレベルの「知ってる」なんだろうと考えたりする事ありませんか?

知ってるよ、分かってるよ。

会社の仕事でそういう言葉を使ってしまう時って大体「アナタに言われなくたってそんな事」という言葉が頭に省略されている事が私の場合、非常に多かったと思います。

これは「今現場に居るのは私なんだ、私が誰よりもココを知っているんだ!」という自負の現れでもあるとは思うのですが、時としてその自負が壁となる場合もあるんじゃないかなと。

以前インドに居て数年現地で仕事をして、日本に出張で帰国した事があるんですね。

当時インドで色々な活動を推進してそれなりの自信を持っていたんですが、その勢いで元部署に居た元上司と会議に入った時にそのプライドが思い切り私の視界を曇らせてくれました。

現地の状況を教えて欲しいと言われていた打ち合わせで半分以上話しまくり、質問に対しても「現地はそういう物なんですよ」、指摘に対しても「分かってます」でさっさと済ませ、教えてやったみたいな歪んだ満足感を心の中に持った時にふと気づいたんですね。

誰も分かった顔してないんです。困った顔してるんです。

その場で得意気になって喋った事は何一つ聞き手の腹に落ちてない。

その事に気付いた時にはもう手遅れで、打ち合わせの時間は終わってしまいました。

「知ってる」という事を示す事が目的なのか?

「知ってる」事柄を聞き手の腹に落とす事が目的なのか?

仕事をしている上で前者を目的とする事は多分無いですよね。

仕事以外ではあるかも知れませんが、ツイッターで自分語りをする時以外に使い道は余り無いでしょう。

後者を目的とした場合に一番持っておかなければいけないのは「知らない」人が考えるであろうアプローチの方法を想像しながら戸惑うポイントを想定して話していかなければならないんです。

その時に役に立つのは、「自分が初めてそれを知る時にどう考えていて、その見方がどう変わった」という振り返りだったりするんですよね。

そしてそうやって考えていく時に「初めてだからこそ感じるかも知れない視点」の存在に気付く事もあるんです。

『知ってる』事から学ぶ事は無い、のではなく『知ってる』という事にしてそこから学ぶ事は無いと自ら放棄している可能性もあるんだよな、という事を、それ以来考えるようになりました。

別にこれは海外だからという訳でもないです。

他部署からやってきた、他社から転職からやってきた、そんな方に色々教える時に同様の状況にはなるんじゃないかな?と思います。

「俺は先輩だからそんな事知ってる。これだけやっときゃ間違いない!」と教わった方も多分いるでしょう。

というか私も新人の時そう教わってトラブルに巻き込まれエラい目に遭いました。

自分のする言動・行為に自信を持つ事は重要な事だとは思います。

でもその自信が他人の意見や視点を受け入れない頑なさになってはいけないな、と自分に言い聞かせています。

それでは!

※何でトップ画これ?って思ってますよね?

「ああ、そんなこと知ってるよ」ってふてぶてしさを表現できる写真がこれしかありませんでした。

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