現地飯を食べれば現地の事が理解出来るんですか?

こんばんは。

今日はここ最近ツイッターのタイムラインで見かけた事をきっかけにつらつら思いを書いてみようかと思います。

色んなきっかけで海外で生活する人は沢山いると思うんですけど、そういう中で「現地を知る」ってどういう事なんだろう?という事についてボンヤリ考えたんです。

きっかけはタイムラインを掠めて行ったどなた様かのツイートです。駐在経験ありの方のツイートだったかと思います。

「海外に駐在して平日は日本食、土日はゴルフという方はその国に全然精通していない」

そうなのかなぁ?どうも読んでいてもその言葉が心に響いてこない。むしろこういうワードが頭の中をよぎったのは事実です。オブラートに包まずに言ってしまいますね。オブラートに包まなければこうです。

「大きなお世話」

もっと言ってしまえば、海外の生活のごくごく限られた食事や週末の行動だけ切り取ってそれでもって現地の事情に精通してるか否かを論じている時点で「浅い」んではないかな?と思えてしまった自分がいるんですね。

私自身平日はインドネシア料理屋で食べてます。休日はゴルフもやらず街中の散歩に精出してます。でもそれをやったからって現地に事情に精通しているなんて到底言えないんですよね。勿論現地の景色を見る事は出来るでしょう。その景色を見て感じる事はあるかも知れません。

何故ドリアン食べるか?好きだからです。

何故コブラ食べたかって?興味があったからです。

何故散歩するのかって?楽しいからです。

別に意識高い事なんて考えてないし、自分の行為を意識高く盛りたいとも思いません。やりたいからやってるだけです。個人が自分に置かれた環境の中で最適だと思ってやっている事に対してどうこう論じるのははっきり言って「無粋」だと思います。そう思って「大きなお世話」という言い方をさせていただきました。

※注記

「現地の食べ物を一口も食べないでそんな物食えるかと言う人には一回食ってみろとは思う」というコメントあったのでそれについては仰る通りかなと思いますがそれは、「トライした事も無いのに『Disる』という行為」に対してです。実際トライして油が合わないとかお腹が下るという理由で日本食を選ぶ背景の人も相当数います。

それにもう一つ言ってしまうとですね、現地のレストランで何か食べたり散歩したりして感じた何かって「現地の事情についての真実」じゃありませんからね。言うならば「現地の景色を見て本人が感じた所感、ないしは仮説」な訳です。そしてその仮説というものは別に飯を食っていて見つかる場合もあれば、仕事をしていてふと感じる事もある。そういう仮説に気付けるかどうかと現地の飯を食う事は必ずしもリンクしないんです。現地飯をあまり食べない方、そして週末ゴルフをなされている方、そういう方でも普段仕事をしていて「その目の付け所はすごい!」と感動する事あるんですよ、そういう方は現地飯に頼らなくても現地に於ける仮説出しが全く問題なく出来ているということになる。

そういう所に目をやらずに、現地のレストランに行ってそれらしくご飯を食べて、そうやって表面上目についた所を何も考えもせず単なる現象と捉えて「俺って君の知らないこんな事知ってるぜ?」って人に語る時にどう言う語られ方をされるか思いつきますでしょうか?

「あるある」

はい、あの「あるある」です。すみませんね私この言葉も好きではありません。

脱線してしまう事を承知で一つ例を出します。これも正直あまり気分の良くない書き込みだったんですが

「妻連れて海外駐在あるある」と題して

・妻の方が夫より語学の上達が早い

・妻の方が夫よりその国に溶け込んでいる

・妻の方が何故か夫より美味しい店を知っている

を挙げていました。これ読んだ時思わずオブラートに包むという行為を忘れてしまいました。

奥さんがそうなる為に積み重ねた努力を考えた事あんのかよあるあるじゃないよ有難い事なんだよていうか「連れて」って何だよ奥さんだって一緒に行く事に相応の覚悟持って来てるんだよ。

…いやこのツイート主に奥さんが居るかどうかは知りませんけど。語学とか努力しないと上達しないんですよ、ネットにない生情報なんてコミュニティの中に溶け込んでいかないと手に出来ないんですよ。そしてそうやって努力していてもどうしようも無い壁にぶつかる事もあるんです。

例出しますね。

インドに住んでいる時に、部屋のエアコンが壊れました。修理依頼して時間指定して、待てど暮らせど修理屋さんが来ない。留守番している妻が何度電話してもダメ、いい加減ブチ切れて妻が修理屋さん怒鳴りつけたらどうなったか?

「Crazy!!」

と言われ電話ガチャ切りされておしまい。困った妻が私に電話してきて今度は私が電話してみます。どうなったか?

「Yes Sir!!」

すぐ来ました。

夫が電話かければ一本で済む問題が奥さん一人の力では解決できない場合だってあるんです。そんな状況か仕事で忙しいからと気を遣って夫の手を煩わせまいと悪戦苦闘している姿を想像した事があって、それでも「あるある」と語れるとするのなら議論をその方と交わしても分かりあえる事は無いのかな?って思ったりもします。

てその人にはその人のやり方がある。そのやり方が私の理解に結び付かないだけなので。ということで『Good Luck』という言葉をお贈りしましょう。

ちょっと話が逸れてしまった気がするので「現地の生活で感じた所感、ないしは仮説」を「あるある」にしない為にはどうすればいいんだろう?という所に戻ってみます。仮説が立ったらやっぱりやってみると良いのは『検証』だと思うんですよね。検証の方法って色々あると思うんですけど、私の場合は、

①日頃関わりの深いオフィスの現地スタッフに話題を振ってみて見解を聞く

②ツイッターにそれとなく呟いて同じ現地住みの方や経験者に知見を伺う、です。

勿論仮説が新たな仮説に繋がったり、その仮説が思いっきり勘違いで覆されたりもする事も山ほどあります。デマだと思ったビニール袋入りのフライドチキンが本当の話だったこともありました。

そういう事を地道に地味に繰り返していくと何が起きるのか?

過去経験してあれっ?と思った事がある時突然「あーなるほどそういう事だったのか!」という気付きに繋がる、そういう事柄がちょこちょこ増えてきます。点が線になる訳です。そしてそうやって点が線になり、線が面になるように知見が広がる感 覚、これこそが「現地への理解が進む」って事なのではないかなって思うのですよね。

そして自分自身の仮説を検証していく時に現地の方と会話をしていくプロセスを重ねに重ねる事で、現地のメンバーも「あ、この人はこっちの事情について知ろうとしているんだ」というのが伝わり、そういう行為に協力しようか、という意識が伝播していく。

そういった『仮説⇔検証』のサイクルを無数に回していく事によって現地に於ける自分の世界は少しずつ広がっていくのかな?と私は考えます。

正直このプロセスにゴールは無いと思います。だから私は「現地への理解が進む」と書いたのです。口が裂けても「理解できた」とは言えません。

でもそれで良いのではないでしょうか。

もっと言ってしまえば上記に書いたプロセスすら人それぞれだと思ってます。あくまで私の感じた一つの仮説と捉えて下さい。それでもこのやり方が読み手である皆様にも合致するプロセスかどうか?

試しに検証してみてどうか感じたらご意見いただけたら私に取ってこれ以上の喜びはありません。

それでは!

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1件のコメント

  1. 分かる気がします。
    食べたことないもの、行ったことないところについては、自分もディスルことはしたくないです。なので、とりあえず試してみます。
    仕事でカンボジアへ行った時、現地の人が接待してくれた料理、自分はお腹が弱いので、正直あまり食べたくなかったのですが、好意なので食べました。美味しかったですが、結果、お腹は壊れました。帰国後1か月の間、おかしかったですが…( ;∀;) それでも食べてよかったと思ってます。

    修理の電話の件、日本でも同じようなことはありますよ。
    あ、すいません、こういう言い方はよくなかったですね(^^;

    いいね

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